メニュー

自治労連が福島県内8市町村を訪問、激励

 福島第一原発事故で、住民は長期にわたる避難生活を余儀なくされ、放射性物質による環境汚染が深刻さを増しています。自治労連では7月6日、7日に続いて、7月14日、15日の両日、野村幸裕委員長、笠原浩委員長らが、福島県内の8市町村(富岡町、川内村、浪江町、飯館村、川俣町、南相馬市、相馬市、新地町)を訪問し、激励、懇談しました。

富岡町では、三瓶博文副町長らが対応(写真)。冒頭、副町長は、大地震と大津波ののち、刻一刻と原発事故の深刻さが増すなかで、3月12日に川内村内へ避難し、さらに16日に郡山市内へ避難した模様を次のように語りました。
「川内村に入ったとき、真っ暗ななか、灯りが見えたんです。ここは電気がきてるんだと。人口2900人の川内村に、富岡町の避難者6000人(全人口は16000人)がお世話になりました。着の身着のまま、食料もなく、村民がコメを出し合って炊き出ししていただきました。朝昼晩おにぎり1個の生活でした。川内村ではまったく通信手段が途絶え、情報源はテレビだけ。爆発がおき、テレビから川内村も危ないことがわかりました。町長と村長が相談して、16日にとにかく町民、村民を連れて逃げよう、当てはないけど、郡山市にある県の施設『ビッグパレット』に向かおうと。国から避難勧告や指示があったかもしれませんが、自分たちには何も伝わっていませんでした。すべて町の判断です。町内のバスを総動員し、自家用車に分乗して逃げました。この『ビッグパレット』には、最大で2500人が避難しました。
現在は仮設住宅が郡山市、三春町、大玉村に建てられ、6割程度が入居しています。しかし、なじみのない地域への不安、バラバラに逃げたことによって地域コミュニティが崩壊してしまったこと、生活費の問題など、入居への困難も明らかになっています。もっとも厳しい問題は生活再建、復旧の見通しが現時点では全く持てないこと。上水道、下水道、電気もとまったまま、立ち入りさえできません。働き盛りの人たちは、ちょうど子どもを育てる世代であるため、「戻らない方も出てくる」ことが懸念されています。「避難所の仕事などを緊急雇用対策としておこなったが、数の限界、賃金単価の限界がある」と言います。そのなかでも「仮設住宅ごとに自治会、コミュニティを考えていきたい」と話しています。

川内村では、遠藤雄幸町長が応対。仮庁舎は、富岡町と同じ「ビッグパレット」においています。原発事故直後の状況について、「14日に3号機が水素爆発したとき、国は屋内退避でいいと言いました。そのとき村民は、富岡町民の受け入れで、炊き出しや物資搬入を外でしていました」と言います。その村民の頭上に、高濃度の放射性物質が降り注いでいたのです。
避難所での生活について遠藤村長は、「高齢者が多く、健康とくに精神面が心配です。僕が顔を出すと安心してくれる」と、こまめに避難住民を回り、声をかけています。長引く避難所生活で、介護を必要とする高齢者が、徘徊したり、夜中に大声をだしたり、失禁するなど重篤化し、介護認定度も進んでいるそうです。そして「しかし、いつ終息するかわからない精神的ストレスはたとえようがありません。最後に『いつ戻れるか』と聞かれるのです」と語ります。
そのなかでも川内村は、郡山市の施設を借りて、小学校と中学校を開設しました。「小学生、中学生はやがて高校生になり、高校生は大学生になる。その子どもたちが川内村に戻ってくるのか。せめて郡山市内に避難した子どもたちを集めて、川内の子どもたちとして育てたいと思った」と述べました。

浪江町では、馬場有町長と上野晋平副町長が応対。町長もまた「津波で家屋を流出した方には申し訳ないが、家があっても戻れない将来への不安は例えようがない」と切り出した後、事故直後の状況について、次のように述べました。
「原発が立地している町はあらかじめバスが準備されました。計画的避難区域の町村は避難の準備ができました。しかし浪江町には国からも東京電力からもまったく連絡がありませんでした。 あとで東電は『電話したが不通だった』といっていますが、それなら車でも歩いてでも連絡すべきです。国もスピーディを公表しませんでした。そのため自分たちは放射性物質が濃い所、濃い所へと逃げたことになりました。情報が伝わっておれば、まっすぐ二本松に来るとか、宮城、茨城に逃げる選択肢もあったのです。自分たちは町民の命を預かっているのですから。県の役割もあります。自治体に連絡していただければ避難先を確保することもできました。三役で、直接、二本松市長にお願いをし、受け入れてもらいました」。
2万人の町民は、45都道府県に避難しています。海外にも避難しています。県外の避難先では、東京、埼玉に次いで新潟県が多いそうです(1000人以上)。柏崎刈羽原発があるからです。地元の労働者は原発の最下層、現場のひどいところで仕事をしています。それだけに事故直後、菅首相が「死ぬ気でやれ」と言ったことに対して、地元では反発しています。「原発でばらばらになり、避難でばらばらになり、家族もばらばらになった」と語り、仮設住宅への入居が進むことによって、その距離が縮まることが期待されます。

飯舘村では、菅野典雄村長と門馬伸市副村長が応対。副村長からは、震災直後から沿岸市町村からの避難住民1300人を受け入れていたこと、緊急避難区域の市町村が福島市内などの借り上げ住宅や旅館をすでに押さえているなかでの1か月遅れの避難になり避難先の確保に苦労したこと、仮設住宅は7月末か8月上旬には整備できること、避難は99%まで進んだが町内にはまだ60人程度が残っていること、北海道から沖縄まで県外にも約500人が避難し、東京、神奈川、埼玉、千葉が多いことなどが話されました。
村長は、「愚痴は言いたいが、言っても前進しない。しかし一つだけわかっていただきたいことは、放射能相手だということ。瓦礫があっても、田んぼに海水が入っていても、時間をかければ、金があれば復旧復興はできる。津波で大勢の人が亡くなったが、泣くだけ泣けばまたがんばろうと始まる。しかしこちらは、安全の問題から若い人、子どもたちは簡単に帰るということにならない。私らは地域に入ることもできない。わずか4-5か月で荒れているのですから」。
そうしたなかで、8月8日からドイツのハンブルグに子どもたちを送り、ハワイに送り、松本への長期派遣を予定しています。「子どもが一番かわいそう。向こうから是非という話をいただいたので。『世界の飯館村』になりましたから、うまく活用して、思い切って夏休みだけでも行かせたい。米100俵ではないが」と話し、「子どもには最大限やらないと子どもがどんどん離れていく」と危機感をにじませます。飯館村ではバス10台を通学用に借り上げ、1学期から独自の幼・小・中を設けています。

川俣町では、永田嗣昭副町長と高橋清美総務課長が応対。川俣町は一部、山木屋地区が計画的避難区域に指定されています。避難した1200人は、今月末までに全員が、仮設住宅と借り上げ住宅に入居する目途がつき、仮設住宅にコンビニもでき、自治会もできて「花いっぱい運動」や盆踊りなどもやっているそうです。介護が必要な高齢者は、ちょうど済生会病院の施設が5月に新設されたため、14人が入所でき、問題は解決されています。しかし農業や林業などの生業に就ける状況にはありません。米はつくるなと言われたので田植えもしていないこと、主産業である葉タバコは出荷停止、1万頭の養豚場も行き先が決まらず残っていること、原発からかなり離れた浅川町の飼料でも汚染されていることが明らかになって県内全体の畜産が壊滅的な打撃を受けつつあることなどが話されました。放射線量の測定は、町内45箇所でおこない、水質調査もおこなっています。線量計を自治会にも貸し出し、住民による測定もすすめています。町内の小学校では、避難してきた山木屋地区の小学校、飯館村の小学校と合同の学校運営がされ、3人の校長、授業も3人が順番でやる珍しい光景が見られるそうです。

南相馬市では、市長、副市長が出張のため、藤田幸一商工労政課長が応対。沿岸部に位置する南相馬市は、地震と津波によって765人が死亡・行方不明となっています。市庁舎のある原町区は地盤が固く、屋根がずり落ちる程度の被害で、落ち着いた感じに見えますが、甚大な被害を受けた小高区は、軟弱地盤のため家屋が倒壊し、さらに電気、上下水道が無茶苦茶で、しかも警戒区域のため入れず。ライフラインの復旧も全く手つかずの状態です。さらに原発事故によって市内の多くが「警戒区域」「計画的避難区域」「緊急時避難区域」に指定され、7月8日には南相馬産の牛肉から暫定基準値を超えるセシウムが検出されたばかりで、3月11日以前は71000人だった人口が、現在35000人になっています。30000人が避難し、5000人が所在不明です。小学生は4割に、中学生は5割に減り、残りは県内外に避難しています。「『健康への影響はない』といわれるが、放射線量は通常の10倍以上であり、住民、とりわけ子どもをもつ親の心配が大きくなっています。山際にはいると放射線量はうなぎのぼりに上がります。国は『警戒区域』等の線のひきなおしをするといいますが、7割、8割の住民が安心だ、帰ってもよいと考えられるように、除染やライフラインの回復などの条件整備が必要です」と語っています。そして「もう一つ求めているのは、個人への補償も必要ですが、事業者への補償です。指針では250万円が上限ですが、個人事業ならいざしらず、事業をしている人にとって二桁、三桁足りない。このまま3か月続くと半分は廃業するでしょう」という要望を出されています。

相馬市では、佐藤憲男副市長が応対。人口38000人の市ですが、津波による被害は、死者・行方不明が459人にのぼります。最初は潮の干満のような30センチ程度の津波だったが、1時間後には10メートルを超える津波が押し寄せ、磯部地区だけで240人が亡くなり、松林もきれいになくなったしまったこと、避難誘導していた消防団員9人、海岸や道路の被害調査に向かった市職員2名も亡くなったこと、相馬漁港の漁船500艘のうち100艘はいち早く沖に出て助かったが、後から出ていった船は全部やられたことなど、3月11日の状況が話されました。そして自治労連からの義援金は「震災孤児等の学業や生活を支援するための義援金」として活用したいとの申し出がありました。
 次に復旧・復興について、「復興とは、被災した人たち一人ひとりが人生設計を構築できたときだ」というコンセプトですすめていること、干拓地の水田はヘドロで埋まり、重金属など何が入っているかわからないので、どう復旧するか困難ななか、現在は、がれき撤去、ヘドロ処理、塩抜き作業を建設業の人たちに任せるのではなく、農家の人に仕事としてやってもらうこと、粉じん対策などで相馬市独自のシステムを考案したこと、が総会されました。しかし漁業の復興について、漁港の仮復旧も終えたが、福島漁連は7月の操業を中止したそうです。暫定基準値の500ベクレル以下でも売れるかどうかわからないことがその理由です。ここでも、原発事故が復旧の障害になっています。
 将来のまちづくりについて、子どもの心のケアのために臨床心理士を6人配置したこと、遺児・孤児に18歳まで月3万円の奨学金を支給し、大学に行くときにも支援策を考えていること、被災地区の学力向上を支援することなど、子どものための施策が真っ先に紹介されました。そして甚大な被害を受けたなか、復興計画は大きな目標ではなく、分野ごとに、短期的にやらなければならないことを明らかにし、着実にすすめること、防波堤も破壊されたなかで、家屋が流失した土地には一定期間、寝泊まりする住居の建設を規制しようとしていること、公営住宅の建築に対して国に5-7年で払い下げ、被災住民も購入できるように、一戸あたり500万円を下げてほしいと要請していることなどが話されました。

新地町では、加藤憲郎町長が応対。まず職員の奮闘ぶりを称え、全国からの支援に感謝。そして「『新地町の仮設住宅は明るい』と言われるが、それは住宅も、財産もすべて流され、身内に亡くなった方がいても、新地町のなかで住んでいられること、ここが原発事故で市町村の外に出ていかざるを得ない地域との違いです」と述べたうえで、『これ以上失うものはないから前に向いて』と被災住民から言われ、8ヵ所の仮設住宅への入居も『集落単位で入れてほしい、遅くなってもいいから』と言われ、絆が強くなった。老人の孤独死は、我々の地域にはないだろう」と断言します。それでも原発事故への住民の心配は強く、PTAから除染器の配置の要望も出され、町として心配を取り除く努力を最大限おこなう決意が述べられました。