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経験・教訓を引き継ぎいかそう 大規模自然災害に向き合って

阪神・淡路大震災から30年 職員増やして災害に強いまちづくりを

今年、阪神・淡路大震災から30年の節目を迎えます。災害に対する国や自治体の防災対策や危機管理にとって大きな転換点となった当時の記録をふりかえり、自治体や労働組合に何ができるかあらためて考えます。

不眠不休で被災者救済にあたった自治体職員

1995年1月17日、太陽も出ない早朝5時46分、マグニチュード7・3を記録する大地震が兵庫県南部を中心に襲いました。ビルや家屋の倒壊、火災も激しく死者は6434人にのぼり、甚大な被害を受けました。

「家具が倒れ、ガラスが割れ、着替えもできない状況から西宮市役所についたのは午前8時50分頃だった。発生から3時間たっても登庁できた職員は1割以下だった」と当時兵庫自治労連委員長だった畦布和隆さんの言葉です。当時は携帯電話の普及率は低く、もちろんSNSもありません。情報が錯そうするなか、自治体職員自身と家族が被災しながらも、不眠不休で被災者の救済にあたりました。

全国から駆けつけた仲間とボランティア

自治労連は、すぐさま西宮市の兵庫自治労連に現地対策本部を設置し、被災地や全国の仲間と連携して支援体制を準備。各地から支援の申し出が集まりました。

芦屋市役所の地下駐車場には救援物資が次々と届き、全国から乗り入れてきた車に物資を積み込み避難所などに搬送。機動性をいかしてバイクで情報収集にあたる仲間も。さらに班を組んで被災者への訪問相談も実施しました。川西市職は連日組合ニュースで市の災害対策本部の決定事項を職員に知らせ、市民に必要な情報は「市民新聞」としてまとめ、大阪と京都の仲間の力を借りながら発行・配布しました。

自治労連の復旧支援ボランティアは、のべ1万2000人以上が参加し、カンパも2億2000万円以上集まりました。自治体の仲間だけでなく、多くの国民が被災地支援に入り、「災害ボランティア」という言葉が生まれました。

自治体、労働組合だからこそできること

当時、自治労連は1月26日の時点で村山富市首相(当時)あてに緊急の申し入れをするなど、対策を迫りました。その後も全国の仲間とともに、自治体への建築耐震など防災対策の実態調査や防災シンポジウムなどで「住民本位の震災の復興を」「人員体制を強化し、災害に強いまちづくりを」と訴えてきました。その運動の経験と教訓が災害対策基本法の改正や各自治体における地域防災計画の抜本的見直しにつながりました。

また、支援やボランティアなどを通じて築いた各地の仲間とのつながりは、その後の東日本大震災や西日本豪雨災害などで力を発揮しました。

あの震災から30年を迎え、各自治体ではメモリアル行事が予定されています。当時を知る職員や住民も少なくなるなか、あらためて自治体の役割と労働組合に何ができるかが問われています。

▲大災害のなか、奮闘する職員やボランティアの仲間

▲現地対策本部となった兵庫自治労連(西宮市)に駆けつけた全国の仲間
当時の状況を伝える『自治体の仲間』

※クリックするとPDFで読めます

▲1995年2月5日号1面

▲1995年2月5日号2面

▲1995年2月5日号3面

▲1995年2月5日号6面

▲1995年2月20日号7面

▲1995年2月20日号8面

▲1995年3月20日号2面

▲1995年3月20日号3面

▲1995年4月5日号1面

▲1996年1月20日号1面

あの日から…30年を迎えて

▲西宮市職労 安宅(あたか) 正博 委員長

り災して出勤できない職員も多く、何日も出ずっぱりで、「3日ぶりに家に帰ってお風呂に入れる!」といった状況だったそうです。また、役職にこだわらず、決断していくようになったとも聞いています。今は当時よりも職員数に余裕がなく、災害への耐性がありません。災害時に、どの業務を停止し、誰が何をやるのか、また、応援職員やボランティアなどをどのように受け入れるのか。しくみも重要ですが、職員の共通理解も重要です。あらためて、災害への備えと心構えを当局に働きかけたいです。

▲芦屋市職労 庄司 貴弘 副委員長

私自身は当時小学3年生で兵庫県内の比較的被害が少なかった地域でした。ニュース映像での記憶程度です。しかし、芦屋市に入庁してから当時の経験を共有できるようさまざまな研修があり、入庁10年目の職員は防災士の取得が必須となっています。このようなとりくみもあり、組合では積極的に災害ボランティアを派遣し、そこで得られた経験は組合活動を通じて若手職員へと伝えられています。それらの伝承がこれから起きる災害への最大の対策です。

[東日本大震災] 「持続可能なまちづくり」は国全体でとりくむべき

東日本大震災から14年。岩手県内の被災地では、単なる原状回復ではなく、基幹産業の基盤強化や、新産業の創出など、住民の声や地域の特性に配慮した復興を模索しています。

一方、被災地の人口減少は深刻です。大船渡市では、人口3万2000人あまりと、震災前から約2割減少しました。大船渡市職の佐藤淳委員長は、「東日本大震災からの復興にとどまらず、持続可能なまちづくりという、国全体でとりくむべき問題に直面している」と話します。

また近年「海洋熱波」という言葉が注目を集めるなど、海洋環境の変化が原因と考えられる不漁や養殖海産物の突然死などが頻発しています。大船渡市の基幹産業の1つである水産業は、多くの支援により震災からの復活を成しとげていましたが、いま再び危機的状況に瀕しています。

佐藤委員長は「三陸沿岸では、日本全体が抱える課題の先行事例のひとつとしての、未来に向けたまちの姿の模索が続いている。このため復興交付金や震災復興特別交付税のように、地方の幅広い財政需要に対応できる自由度の高い国の財政支援が必要である」と訴えます。

▲大船渡市の街並み

▲大船渡市職の佐藤淳委員長
[能登半島地震から1年] 今も奮闘つづく被災地 国の責任で抜本的な対策を

昨年1月1日に発生した能登半島地震は、マグニチュード7・6を記録し、多くの家屋が倒壊。土砂災害や津波などに巻き込まれ、多くの住民が亡くなりました。現在までに関連死を含め死者475人にのぼり、101人がいまだ避難生活をしいられています。

自治労連は、全労連や災対連とともにボランティア支援を呼びかけ、昨年1年間でのべ358人(自治労連123人含む)の仲間が被災地で活動。全国から寄せられたカンパは石川、富山の2県と能登半島の輪島市など3市3町に届けました。どの自治体も復旧・復興に向けていまも奮闘し続けています。

一方、被災地では9月の豪雨災害が重なり倒壊した家屋の多くがいまだ手つかずで、「これまでの震災の教訓がいかされていない」「国と県の責任は大きい」など、課題は山積みです。自治労連は能登半島地震から1年の節目として2月11日にオンライン集会を実施し、災害支援と自治体の役割について全国の仲間とともに考えます。

▲今も手つかず状態の能登半島

能登半島地震から1年、住民のいのちとくらしを守る交流集会
―災害支援ボランティアから見える自治体の役割―
日時:2025年2月11日(火・祝)
詳細は職場の労働組合まで

[福島原発事故] 「災害復興文化」の形成 世代またぎとりくみを

原発事故後の復興について、福島大学の鈴木浩名誉教授は、「被災者の生活再建などの緊急課題と、『原発事故の収束と廃炉』のような超長期課題にも直面している」と話します。鈴木名誉教授は被災者・被災地が主体的に災害に向き合うための「県民版復興ビジョン」にとりくんでおり、「『生活の質』『コミュニティの質』『環境の質』について具体的指標の整理や合意形成をしながら、復興をすすめていくことが重要だ」と指摘。

また、「阪神・淡路大震災では毎年追悼と被災地巡検活動などが蓄積され、『災害復興文化』が形成されつつある」「原発災害の教訓をどのように価値観や文化につなげていくか」と、世代をまたいだ継続的なとりくみの必要性を訴えました。

▲原発のない社会を訴える県民集会。ノーベル文学賞を受賞した故・大江健三郎さんもよびかけました

▲福島大学 鈴木 浩 名誉教授
[西日本豪雨] 仲間とともに災害の経験と学んだことを伝え広げたい

2018年の西日本豪雨災害は、中国・四国・近畿・九州地方の広範囲に被害をもたらしました。被災から7年、当時の経験と教訓を青年たちが学んでいます。12月7~8日に行われた四国ブロック青年部企画「ドキジャムin西予」で、愛媛県西予市を訪れた愛媛と高知の青年たちは、「災害伝承展示室」を見学。パネルやVR映像などを見て豪雨災害を追体験。語り部からも災害時の状況や災害に備えて何が必要かを学びました。

また、街に出てマンホールトイレ、かまどベンチなど新たにできた災害対策もチェック。その後のワークショップで「災害にどう備えるか」「自分の自治体ならどうする」などを話し合いました。

自治労連愛媛県本部の山田琉聖(りゅうせい)青年部長は「今日みんなで学んで、わからないことや不安を持ち帰って確認すること。また今日学んだことを伝え広げることが大事です。それが災害に強いまちづくりにつながると思う」と話しました。

▲西予市野村町を語り部の方と歩きながら被災の状況を振り返る青年

▲「ドキジャムin西予」に愛媛・高知から17人が参加。写真中央で旗を持つ山田さん