自治体労働運動資料室

民主的自治体労働者論アーカイブ

20 自治労連・岩手自治労連編[2014]「3・11岩手自治体職員の証言と記録」(大月書店)参照

 消防団に所属している職員で「消防車でみんなと別の方向に、まるで津波に向かうように行った」(証言)者。住民の安全避難のために市街地に、海の方向に向かって行った者。
 庁舎が危険ということで庁舎玄関前で災害対策本部を開催していて流された者。庁舎外で会議していたものの、非常事態ということで本庁舎に戻って流された者。
 また本庁舎に戻ろうとして、車で同乗していたものの、津波に襲われてその後安否がわからない者。波と土煙にのまれていく役場を見届けた者。
 一方で、仲間が流されていくのにどうにも助けられずその状況を見守るしかなかった者。そしてその後には、助けたくても助けられなかったということで自分が生きていていいのかと自責の念に駆られた者。
 波が引くたびに、倒壊し、波によって運ばれてきた家屋から人を引きずり出した者。火の手が迫る中で、最悪の事態を想定し、乳児やけが人を搬送した者。
 走って避難する人が後ろから来た波にのまれていく様子を目にした者。
 波と一緒に瓦礫が行ったり来たりするのだが、その瓦礫にちょうど小学5年生くらいの女児が乗っていて、自分に向かって「怖いよ、助けてください」と叫ぶのだが、どうすることもできず、沖に流されていく女児を呆然と見守るしかなかった者。
 流されずに残った家屋が火災に見舞われるなど、あちこちから聞こえる、プロパンガスの爆発音が昼夜鳴り響く音を聞いた者。避難所を駆け巡るなかで、「役場職員は何をしているんだ!」と罵声を浴びせられた者……。
 陸前高田市の広報担当者は、地震直後、上司から「これは大変なことになる。記録を取るように」と指示され、カメラを片手に高台に駆け上がり、津波が4階建ての市庁舎の3階まで飲み込む中で、結果的に難を逃れることができました。「自分が助かったのは、この仕事をしていたからだ。だから、公報で住民に恩返しをしたい。50号まで必ず出す」と対策本部にずっと寝泊まりし、連日広報を発行し続けました。
 保育所では、岩手県内9市町村で全壊11か所、浸水8か所、建物損壊が4か所となりました。県は保育所に通う子どもの犠牲は40人と発表しています。すべてが保育所からの帰宅時でした。保育所に残っていた子どもは、県内どこの保育所でも保育士がすべて守り抜きました。おんぶしたり、抱っこしたり、避難車に乗せたりして、山を這い上がり、とにかく子どもを守ることに命を懸けた結果です。ただ、保育士たちも心の痛みを受けました。地震直後、震災時に引き渡した子どもが防災頭巾をかぶったまま、保護者とともに津波に呑まれた車の中から遺体で発見されたことに胸がはりさけられるのでした。彼女たちは震災1週間後には公民館などを使って『青空保育』を開設し、1ヶ月後には、高台にあって難を逃れた保育所の協力を得て、合同の仮設保育所をはじめました。
 岩手県立病院では、津波が鉄筋4階建ての病院を呑み込みました。医療機器もすべて流失しました。こうした困難なもとでも「医療を必要としている方のところに出向いて診療しよう」「地域に責任をもつ公立病院だからこそ、その役割を発揮しよう」と、各避難所を訪問するローラー作戦を行いました。県立病院を統廃合し、病床を減らし、医師を減らし、公的医療の機能を縮小させた国と県の責任が問われるものとなりました。
 大槌町の栄養士は、避難所である中央公民館・城山公園体育館の調理室の床に段ボールを敷き、座して夜を過ごしつつ、「『食』は『命』、この職を天職」とひたすら走りに走った日々を過ごしました。
 同僚3人を亡くした大槌町の保健師は、避難し山を駆け上がった高台の救護所で、目の前にいる、助けなければならない命のために、子どもたちのもとへ飛んでいき、この手で抱きしめたいという衝動を抑えました。以後、地域に出向き、「保健師さん、来てくれて良かったぁ」という住民の言葉を聞き、保健師は地域に育てられてきたことを改めて知り、保健師は地域にとって、その人の生活を支えるかけがえのない職業であることを、多くの住民から教えられました。