第3回世界労連大会報告集
文献の概要
体制の違いを超えた世界各国の幅広い労働組合によって1945年に結成された世界労連は、東西冷戦のもと、直接的には1949年のマーシャルプランの是非をめぐる対立からアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL・CIO)などの資本主義国の反共主義的組合が脱退し、世界自由労連が結成され分裂しました。
こうした状況の下で、世界労連は運動の統一をめざして第3回世界労連大会を開催しました。会議は1953年10月10日~21日、オーストリアのウィーンで開催されました。
この会議は「世界労連という組織としての定期大会であったと同時に、世界労連未加盟労組をひろく結集したという点で、全世界の労働者の大会であったという新しい性格をもっている。79カ国、8860万の労働者を代表する819名という多数の代表が参加した。植民地・従属国の組合代表も総代表数の約40%近くをしめていたことは、この大会が全世界の広範な労働者の統一大会であり、もっとも圧迫されている労働者を中心として、全世界の労働者の当面の行動綱領をうちたてたものとして、まさに歴史的会議であったといえよう。なお、この大会には、日本から戦後はじめて合法的に、13名からなる日本労働組合代表団が参加し、この大会で日本報告をおこない、注目を浴びた」(大原社研「日本労働年鑑1956年」より)と評価されています。
第3回大会を「全世界の労働者の大会」として開催した世界労連は1954年12月9日~14日ワルシャワで第7回評議会を開催し、14日には「労働者の利益と労働者の経済的・社会的諸要求をまもって、成功をおさめるために、欠くべからざる武器である労働組合の権利と民主主義的自由をかちとり、守るため闘っている労働者の行動の統一を実現する」(注)ために『労働組合権利憲章』を採択しました。そして「憲章をできるかぎり最大多数の労働者に知らせること」「憲章にふくまれている諸要求の具体化をめざす闘いをひろげること」「当局や雇主に認めさせるために・・ひろいカンパニアを組織すること」「「団体協約のなかに憲章の諸要求をできるかぎり多くおくりこめるように努めること」等を進めることを確認しました(注)。
* | (注)「労働組合権利憲章の国際的カンパニアの組織化に関する決議」(1954年12月10日、世界労連第7回評議会、大原社研『日本労働年鑑1956年』より) |
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第3回世界労連大会には日本からの公式の代表団13名が出席しています。日本代表団は帰国後2つの出版物をまとめました。それは「第1議題、第2議題報告書(決議宣言を含む)」と「決議宣言集」であり、その発行部数は会議が開催された1954年の年末時点でそれぞれ14,000部、2万部であり、労働組合活動家の間に急速に幅広く浸透したことがうかがえます。
また、1954年末に発表された「労働組合権利憲章」は日本の労働運動、公務員、公務員組合にも大きな影響を与えました。「労働省や農林省の労働組合では、この憲章が多数プリントされて、職場で討議された。どの公務員組合でも、機関紙に掲載して討議を組織していった」と国際公務員会議日本代表団はその影響を報告しています。
* | 以上「統一をめざす世界の公務員労働者―国際公務員会議議事録」より |
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民主的自治体労働者論に大きな影響を与えた国際公務員インターですが、その背景にある到達点として世界労連大会と労働組合権利憲章を検証する必要があります。
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