第74録 遊歩道を歩き芭蕉の旅と時代に思いを馳せる
2022年8月号 Vol.585
『奥の細道』尿前(しとまえ)の関と山刀伐峠(なたぎりとうげ)
遊歩道を歩き芭蕉の旅と時代に思いを馳せる
山形・最上町(もがみまち)
▲山刀伐峠入口付近
平泉から出羽(でわ)の国へ
松尾芭蕉の『奥の細道』といえば、多くの方が知る紀行文の古典です。「尿前の関」「山刀伐峠」は、松島や平泉中尊寺のような旧跡・名勝地ではありませんが、往時の旅の困難さを、現在も実感できる場所です。芭蕉は、1689(元禄2)年5月、平泉から奥州街道を南下、現在の宮城県鳴子温泉を経て、太平洋側から日本海側へ、出羽の国(山形県)に入っています。
尿前の関(封人(ほうじん)の家)分水嶺を越えて
「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」(ノミ、シラミに責められて眠れない枕元近く、馬が尿をするすさまじい音が響いてくる)。
芭蕉は、奥羽山脈の分水嶺を越えましたが、国境の尿前の関では、旅人の稀な道なので、番人に怪しまれながらも、封人(国境を守る関守)の家に、荒天を避け3日間泊めてもらいました。その時の句です。
封人の家は、茅葺寄棟(かやぶきよせむね)づくりの創建当時の様式で保存され、一般公開されています。当時、村の庄屋も務め、関守を兼ねた大型民家ですが、この地域(現・山形県最上町)は古くからの馬の産地であり、馬と住民が同じ屋根の下にくらし、旅人もそこに泊まったのです。
昼間も暗い山刀伐峠「歴史の道」として一部保存
国境で思いがけず3日間逗留した芭蕉は、俳人で豪商として知られた鈴木清風(せいふう)を訪ね、尾花沢(おばなざわ)に向かって山刀伐峠を越えます。峠は昼でも暗く、このときの様子を『奥の細道』では「高山森々(こうざんしんしん)として一鳥(いっちょう)声きかず、木(こ)の下(した)闇(やみ)茂りあひてよる行(ゆ)くがごとし。雲端(うんたん)につちふる心地して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまずい)て、肌(はだえ)につめたき汗を流して、最上の庄(しょう)に出(い)づ」と見事に表現しています。
芭蕉がたどった峠道の一部は、歴史の道として、総延長1200メートル余りが近世道のまま保存整備されています。要所に説明版、標識、道標なども設置され、往時をしのばせる遊歩道です。並行して、普通車の通れる舗装道も整備されていますが、時間があれば遊歩道を歩いて、雰囲気を感じみてはいかがでしょうか。
峠を越えた尾花沢市内には「芭蕉清風歴史資料館」も設置されています。
見聞録メモ
尿前の関・山刀伐峠の位置は、最上町のホームページで確認してください。
尿前の関(封人の家)はJR堺田駅徒歩5分、山刀伐峠は公共交通機関がないので、自家用車利用が最適です。
▲山刀伐峠山頂
▲芭蕉清風歴史資料館
▲封人の家