第76録 新古和漢洋を総合 漱石山脈の登り口
2022年11月号 Vol.588
俊英を育んだ文学サロン、漱石山房
新古和漢洋を総合 漱石山脈の登り口
東京・新宿区早稲田 新宿区立漱石山房(そうせきさんぼう)記念館
▲漱石山房記念館正面玄関
うまい物を食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
頭を右に傾(かし)いで『草枕』をめくってみました。漱石が逝去した歳を遥か超えて、ようやくほんのわずか、文豪に近づけそうな気がします。
ここは漱石山房記念館ブックカフェ。「漱石山房」とは、夏目漱石が晩年に住んだ家のこと。書棚に各種の全集や文庫、漫画まで揃えられ、手に取ってお気に入りを探すことができます。
こことは別に「CAFE SOSEKI」という部屋があり、珈琲を飲みながら静逸のひとときを過ごすことができます。ただ名前に違和感が。「坊ちゃん」なら「縦書きに横文字は不都合だ、箆棒(べらぼう)め」と怒るんじゃないかな。
特別展「夏目漱石と芥川龍之介」を見ていたら、芥川と久米正雄宛の漱石の書簡にこんな件(くだり)がありました。
文壇にもつと心持の好い愉快を輸入したいと思ひます。それから無暗(むやみ)にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。
新古和漢洋の書籍が書棚や床を占めている書斎。紫檀(したん)の文机が小さい。この小さな机から命を削るようにして、あの豊饒(ほうじょう)な文学が生み出されたのかと、感慨深いものがありました。
師弟の交流「木曜会」
漱石は木曜を面会日と決めていて、この文学サロンに出入りしていた森田草平・鈴木三重吉・安倍能成(よししげ)・小宮豊隆・内田百閒(ひゃっけん)・江口渙(かん)らに続いたのが芥川や久米正雄らです。彼らに対する漱石の態度は展示にある書簡に窺うことができます。
『鼻』に対する漱石の称賛が芥川の作家としての歩みを決定づけたことは有名です。
あなたのものは大変面白いと思ひます。自然其儘(そのまま)の可笑味(おかしみ)がおっとり出てゐる所に上品な趣があります夫(それ)から材料が非常に新らしいのが眼につきます。
芥川・久米宛の別の書簡では、
根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。
井上ひさしは漱石の基調を「寂(さむ)しい」と理解しました。とすれば、この木曜会は漱石にとっても幸せな時間だったのではないでしょうか。
北区が芥川龍之介の記念館を芥川邸跡に開設準備中です。期待して待ちましょう。
漱石山房通りを歩きながら、こう考えた。
浮ついた重武装国はいつか亡(ほろ)びるね。新古和漢洋が調和した多様で分厚い文化国家こそ生き残る。
▲ブックカフェ。書棚にある各種の全集・文庫・漫画をゆっくり閲覧できます
▲芥川、鈴木三重吉、高浜虚子、森田草平との交流を記した特別展図録。セット割引頒布中