第130館 近代文学史上に輝く「人間・正岡子規」
2013年2月号 Vol.471
愛媛県松山市 松山市立子規記念博物館
近代文学史上に輝く「人間・正岡子規」
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」「松山や秋より高き天守閣」など、愛媛県松山市が生んだ俳人・正岡子規(1867―1902)。「松山市立子規記念博物館」は1981年4月に道後公園敷地内に建てられました。「人間・正岡子規」をテーマに、「道後松山の歴史」「子規とその時代」「子規のめざした世界」の3つに分け、展示されています。 子規は中学時代(明治16年)、自由民権運動に触発され、政治家をめざして上京しました。東京大学予備門や帝国大学文科大学で学びながら、和歌・俳句と出会い、寄席やベースボールに夢中になった青春時代や、新聞「日本(にっぽん)」で俳句や短歌の募集や小説・紀行文の執筆などに打ち込んだ新聞記者時代など、実物資料を始め、レプリカ・写真・映像などで子規の生きた時代が追体験できます。 また、この記念博物館は学校の課外授業にも利用されることから「なるほどしきさん」と題した16種類ものガイドシートが館内に置かれており、子どもだけでなく大人にとってもわかりやすい資料としておすすめです。 1895(明治28)年、帰郷した子規は、中学校の英語教師をしていた親友・夏目漱石の下宿に住みます。「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」と名づけられたその下宿では、たびたび句会が開かれていました。3階にはこの愚陀仏庵が復元され、なかに入り、写真撮影をすることができます。 俳人として大きな足跡を残した子規ですが、その人生は病魔とのたたかいでもありました。22歳で肺結核による喀血、28歳には脊椎カリエスを患い、33歳の頃から寝たきりの生活をおくりながら、亡くなる2日前まで新聞「日本」に随筆「墨汁一滴(ぼくじゅういってき)」「病床六尺(びょうしょうろくしゃく)」を発表し続け、35歳で亡くなる数時間前にも「絶筆三句」と呼ばれる句を遺しました。どのような状況にあっても執筆をやめようとしなかった子規にとって、まさに「書くことは生きること」だったに違いありません。
▲屋根に銅板を使用し、「蔵」をイメージした外観
▲復元された愚陀仏庵。子規はここで52日間くらしました
ミュージアムメモ
所在地/ |
愛媛県松山市道後公園1−30 |
電話/ |
089−931−5566 |
交通/ |
JR松山駅より市内電車で「道後温泉」行き「道後公園前」駅下車徒歩5分 |
開館時間/ |
11月〜4月:午前9時〜午後5時、5月〜10月:午前9時〜午後6時 |
観覧料/ |
400円(高校生以下は無料) |
休館日/ |
月曜日、祝日の翌日、12月29日〜31日 |